遮光(中村文則)

 中村文則は、読んだ中では銃と掏摸が好きだという話をしたら、友人が強く薦めてくれた本。信頼の一冊だった。中村文則で一番好きかもしれない。

 わたしは他のものでは決して埋め得ない喪失、残された人間に穿たれた穴をとくべつ好む人間なのだが、本作に主題としてそれを求めることはしなかった。そのような楽しみ方もできるとは思う。でもわたしがなによりも注目したのは、語り手の男が常に、求められる/もっともらしい何かを演じている、という意識があるところ、そして演じ切ることによって陶酔を得ているところだ。

 おそらくは誰しもが、大なり小なり身に覚えのあることだと思う。積極的に自己投影はしないが、自分は少なくともそうだ。誰が相手でもどんな場でも、そのコンテクストに自分がどんな主観を抱いていても、「求められたことに答えた」とすれば「達成感」は得られるから、なんというか単純に都合が良いのだ。うまくいけばいくほど、アドリブで気の利いたシーケンスを演出してみせたような悦がある。ただ、そのメソッドに味を占めすぎると、主体的な意思決定と「然るべきであるからそうした」の区別が自分でもつかなくなるときがある。

 この本でぜったい自分語りをしたくないと、読んでいる途中から思っていたのに、してしまったな……

 語り手の男の幼少期の記憶には、いくらかのこたえあわせがある。男のこうした性分のルーツ(とはいえ養父に決定的なひとことを放たれる前から十二分に適性が垣間見えているので、活性化でしかなかったのだろうけど)、大切な人の体の一部分を持ち歩くという行為が、自身の「陰鬱さ」を日向で持ち歩くことと同義であるということ。あとがきでもこの「陰鬱さ」に言及があったので、筆者としても自身のやわらかいところを持ち出した著作なのだろう。

 本作、内容的に教科書には載せられないんだろうけど、「遮光」という題の回収の仕方というか、メタファーの置き方は、素人でも設問が作れそうなくらい綺麗でシンプルだと思った(自分の読解力に自信があるわけでは決してないが……)。わたしはノーランの少しマイナーな映画「インソムニア」が大好きなのだけど、白夜期間の北欧で罪を犯した男が、寝室のカーテンの隙間から突き刺してくる白夜のひかりを必死に何かで覆い隠そうとするさまが、映画そのものを象徴していて忘れられないシーケンスだ。だから、本作で太陽の描写があるとき、あの絶望的に眩しい北欧の夜が脳裏をよぎった。直射日光は死体の腐乱を早くする。

 中村文則が書く語り手の、何というのだろう? 素面の暴力がほんとうに大好きなんだよな。はたからすれば衝動的で突拍子もない行動なのだけど、わたしたち読者はずっと一人称で読んできたから、分かりやすく乱暴な「狂気」の印象は受けない。かれの中のルールを知っていて、かれの文脈で書かれているから、するっと地続きの出来事として読めてしまう。それでも流れるように行われる暴力には(性癖的な意味で)痺れてしまう。秒で武器見つけてきて背後から殴るのとか、笑いながら相手の頭を机に繰り返し打ち付けるのとか、シンプルにめちゃくちゃ興奮した。本人が素面(演技だと思っている)のもたまらない。

 もうほんと、二言目にはこれに言及している気がして恥ずかしいんだけど、「さよならを教えて」を初めてプレイしたときの興奮に近いものがあった。虚言癖の一人称が上手すぎる。淡々とした一人称を対岸のように眺めるのが大好き……

 読み終わったら、syrup16gが聴きたくなった。